エモいダベル論

誰もが自由に語り合えて、しかもそれがマウント対象にならない現場

takahito iguchi
5 min readMay 5, 2020

オールユアーズ木村さんがダベルでやられているずっとやってくる人を待ってる(そして来る人を全員インバイトする!)スタイル。

これ、実は、既に米国で普及しているユースケース の主流とも言える利用スタイルで、よくあるラジオ番組形式とか、テレカンファレンス方式またはPodcastや音声ブログみたいなスタイルは決してダベルの真骨頂ではないと思ってます(”否定”しているわけではないので、念の為…)。

例えば音楽する人にとってのダベル。

音質がそれなりに良い上に遅延も余りないのでジャムセッションとか出来なくもないのですけど、そこで完成形を届けようとするとダベルは途端につまらなくなります…。

それよりも公開スタジオ録音のもっと生々しいバージョンみたいな(地下室で篭って音作ってる環境そのまま公開しているような)創作現場の垂れ流しはダベルの空間にかなりフィットします。

通常そういう現場を経験することは余りない上、僕自身プロの音楽家の人はそういう舞台裏公開のようなコトを嫌うんじゃないか?…そんな思い込みもありました。

が、実際目の前で起こっているコトは全くそうではありませんでした。

音楽家が作曲の現場を解放し、エンジニアがソフトウェアの開発方法開示し、起業家が製品アイデアをその発想の成り立ちから説明するようなことが日々頻発している。それが今のダベルです。

要するにラジオやポッドキャストのメタファ、つまり完成形の表現や固まった知識や情報を正確に伝えるようなラジオ的メタファは製品を説明し易くするための簡便な(仮の)キーワードに過ぎないので現実のダベル(の真価)を決して表現することができない…。

例えばイノウエタクミくんが惜しげも無く企画会議やアイデアジェネレーションの現場を晒しているのは、極めてダベル的です。

エライ人はダベルに向かない。

その地位や名誉や経済力とか影響力が前提になるとダベルはつまらなくなる。

だからソーシャルラジオやポッドキャスト的”インフルエンサー”の考え方はダベルと相性が悪いし、良さを殺しかねない気がします。

ダベルは”音声版電子会議”というよりは”公開された電話”というべきなのかも知れません。

そう電話と権力は直接関係ないのです。放送あるいはメディアというものはそもそも権威づけや権力との関係を(常に)取り沙汰されるものです。

オールユアーズ木村さんの”誰しもを待ち受け、誰しもを招待する”「共同の対話」は、反権力の滑らかで健やかな表現だと感じます。

人がその影響力を駆使しようとする時の暴力性や権威の行使は、ダベルの製品価値の対極とすら感じます。雑談が雑談を生み出せる和気藹々としながらも創造的な現場…。

子供だって主婦だって眼をキラキラさせていきなり創造行為に向き合えるフェアネスがダベルの真価だと思います。と、いうようなことをブログで民主性アピールしていることすら歯がゆい気すらします。

雑談がこれほど創造的な行為であったことは製品開発者の自分ですら驚いていますし、現実に使われた方々もきっと大いに驚かれているはず…。

会話(雑談)を共にする現場を外に向け開くこと。

そしてそこに他者の介在や介入を迎え入れて楽しめること。これが今今のダベルの実情であって、何と言うか他に良い表現が浮かばず、今は「Live Audio MeetUps」というタグ・ラインで呼び慣らしています。もしもっと良い呼び方があれば、是非ご教示ください…。

そしてずっと前からダベルで「哲学対話」をやりたいと思いながらずっと勇気が足りず踏み込めずにいる自分です。よかったら哲学対話申し込んで下さい。宇宙や生命や人間や哲学について好き勝手にダベりましょう…。

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