内なる苦痛に向き合う事と、ベイビーアプリの開発について

takahito iguchi
5 min readMar 16, 2016

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人にとって、製品開発の入り口(必然的な導入部)は何なのだろう?

ベイビーアプリの場合は明確な「痛み(ペイン)」だった。といっても、タクシーがすぐに来ない(Uber)とか、泊まりたいところに泊まれない(AirBnB)のような物理的ペインではなく「話したい時に人と話せない」という、どちらかと言うと精神的な痛みが入り口だった。

今考えると、内的な痛みから入るのは良い入り方だったかもしれない。

なぜなら、痛みを感じる度に具体的なソリューションを考える機会が訪れるのだから。

そして、痛みを問いかけとするなら、痛みへのソリューションは、その問いかけへの答えを考えることになる。だから、もしソリューションを実現できたら、最初から使い道がある=使い手が居ることになる。

あとは、自分自身の痛みを入り口にすることで、他にないソリューションを考える機会を得られる。

そして、もし良いソリューションができたなら、それを他人に薦める上でも、自己の内部に内的な納得感が有る状態で薦めることができる。

これはマーケティング的にはとても良いことだ。人は納得感がないものを人にす薦めるのが苦手だ。

アプリケーションを考えるときに(既存の成功した)アプリケーションを考えるのはきっと余り良くない入り口なのだろう。

なぜなら、それは誰かが有する固有の痛みであり、その誰かの痛みに対してのソリューションなのだから。誰かの痛みに対する共感は難しい。誰か他人に向けたソリューションに対して内的な納得感を持つのはあまり簡単なことじゃない。

ベイビーアプリの場合の「誰かとお話したいけどできない」には、幾つかの「焦点」が有った気がする。

まずは、「誰か」というポイント。

もうひとつは「お話」する行為を扱うということだ。

誰か=アノニマスで良いのだという割り切りは、割りと最初からあった。

そして、むしろアノニマス=知らない第三者とエンカウント出来るというのは、とても良いインパクトを持つだろう!と思えた。

要するに、誰かと話せるというエンカウント状態(第三者との出会い頭の会話は面白い)に、内心とても大きな可能性を感じたのだ。

そして、お話するという行為をテキストチャットではなく電話のように話すというスタイルで考えてみた。

そうするとそもそも電話が凄く苦痛で、それはたぶんデジタル通話アプリに於いても、相変わらず解消されてはいないだろうことに気が付いた。

誰か=アノニマスで良い。

これはソーシャルに閉じてしまった現在の人間関係の息苦しさへのソリューションを含んでいる。SNSは逃げも隠れもできない。逆に、何か好き勝手に話せるかというと、息苦しい閉塞性もあるのだ。

さらには「話す」という行為にフォーカスした結果、電話の辛さ、苦しさへのソリューションをこのアプリは含んでいるということに気が付いた。

電話(あるいは、デジタル通話アプリ含む)の苦痛は例えようがない。

要するに、話したいけど話せない。というのは、ある意味電話利用時の苦痛が発想の原点に有ったことを意味するのだろうと思う。

そしてベイビーアプリのソリューションは、その電話あるいはデジタル通話のもたらす深刻な苦痛への解決策を含むのではないだろうか?と思い至った。「話したいけど話せない」という状態は電話の再定義を考える糸口だった。

あと、その仮説提出および検証は、常に何かを仮組みしてみること。まずはそれを自分自身で試してみること。そして、それを人にも試してもらうこと。そういった実際の体験を通じてしか進められないということは開発時に感じた鉄則だ。

体験することなく、その痛みへのソリューションとして効果的かどうかを推し量ることは実に難しい。

一方、それを現実に試すことでしっかり内的な納得感を得られれば、それはきっと良いソリューションだろう。

事ほど左様に、自己自身の内なる苦痛に向き合い、その痛みへの解消手段としてアプリケーションを考えるというアプローチは、非常に意味深いと思う。

そして、そのプロセスの繰り返し自体がアプリケーション開発の本質だと思えるのだ。自己自身の「苦痛」へのソリューションを仮設し、検証し、磨いてくプロセスだ。

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Written by takahito iguchi

Tonchidot & Telepathy & DOKI DOKI!!

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