当たり前の革命
アップルとxRデバイスの存在価値
次の10年に何が起こるのか?
いわゆるxRの時代に向け、果たしてどういうデバイスとどういうサービスが今後受け入れられて行くのか?それはある程度まではヒットのパターンとして想定可能だ。
まず最初に、そのサービスが我々の生活パターンの中にある、当たり前の行動を便利にすること、そして一つはそのデバイスが既存の所有物の延長にあることだと思う。
例えば、Apple WatchとGoogle Glassの出来ることは極めて似ている。
音楽体験はGoogle Glassの対象外だけれども、それ以外のノーティフィケーションとスマホのリモコン的用途という点では、とても近い製品だ。片方は元々「時計」もう片方は「眼鏡」。
身に着ける「道具」としては、それぞれ既に存在していた物だが時計の占めていた手元の拡張としての"時間の確認"に加え、ノーティフィケーションとスマホのリモコンという存在価値は体験として実に便利で、しかも時間の確認という、起点になっている体験の延長系として成立している。そういう価値軸で改めてxRの将来像を探ってみたい。
当たり前の道具、当たり前の体験
もし、グーグルグラスがストレートに眼鏡のもたらす体験価値をサービス設計の根幹に据えた機能デザインを行っていたら?
そして視覚の強化まで行かなくても、眼鏡を通じ「見ること」をベースにした製品価値を考えていたら、もっと大きな変化を引き起こせたたかも知れない。
グーグルグラスで視野の片端に時計を出すのが当初のキラーアプリだったのは有名な話だけども、アップルウォッチは、ある意味愚直にそれを人の手元で行っている。時計の果たすべき役割(時間の確認)から機能の拡張を自然におこなっている。それはとても地道ながら、とても自然に、その道具の持つ価値を類推・理解・把握できる手法だと言える。
アップルは実に堅実で、地道なデバイスおよび基本欠くべからざるサービスを立脚点として、そのエコシステムを作ってきた。
AppleTVもその出自はテレビであり、テレビ視聴体験のストレートな拡張としてその根を張ってきた(成長するまでのタイムラグは、それでも非常に大きかった)。テレビは日用品であり、テレビの見方は誰でも知っている。Appleは常にその革新性を既存の道具(デバイス)と体験(サービス)の土台を起点に引き起こして来た。
革新性は日用性をその基礎としている。逆にその新しい価値を受け入れる土台がユーザーの側にあり、その価値の評価や想像が容易だった。iPodは音楽プレイヤーの価値をゼロから規定した訳では無い。
そこにある物から考える。
スマートスピーカー、そしてウェアラブルのオーディオも同じく。それらは全くの新発明ではない。
Bluetoothスピーカーもイヤパッドも長らく存在しており、それなりのマーケットは存在した。それをクラウドと繋げスケーラブルなサービスにデザインし直したのが素晴らしい。が、イヤパッドやスピーカーそのものは既に存在していた。それはデバイスとしてもサービスとしても既知のものだった。
現状のxR系のデバイスとサービスが苦戦を強いられており、同時に業界がAppleの降臨を待ち焦がれる状況にあるのは、その日用品としての土台と、それを基礎にした日常的行為のスマートな拡張、当たり前の行動の効率化の絵を具体的に描き、それを世にもたらすことに未だ成功していないからだと思う。
1970年代に少なくとも(パーソナルとは言えないが)コンピュータは存在した。また2000年代インターネットに接続したケータイは存在した。MacもiPhoneもコンピュターやスマートフォンの発明というよりは既存のデバイスやサービスの大幅な更新であって、その土台が既に存在するからこその価値提供だった。
ウェアすることは価値でも何でもない。
xRの想定する新しい体験価値を提供する上で何か"新しい道具"を装着することは基本苦痛でしかないし、別の言い方をすれば障壁とも言える。
それを装着することを前提とするべきでは無いし、装着することは価値でも何でもない。
ウェアしないこと、あるいは既にウェアされていること、またはウェアしたとしても、それが苦痛や不便さを与えないこと。などを理想形として考えるなら、例えばAmazon Ecboが打ち出した一つの方向性は、今後の大きな指針を示している。
簡単にいうと、
1)そこに存在していること
2)声でやりとり出来る(ある意味究極のユーザーインターフェイス)
3)クラウドに常にコネクトできること
これらをウェアせずとも可能にしている。これが素晴らしい。スピーカーはそこにあっても不自然ではないし、声で音楽を選べるのは、既存の体験をよりよく拡張している。
つまり、生活者の視点が起点になる。
その価値基準をとても簡単にまとめるなら、
1)既存デバイスの応用。あるいはバージョンアップに収まるデバイス
2)既存の日常的行為の拡張、あるいは、その延長系にある体験価値の得られるサービス
以上の範疇でユーザーに受容される組み合わせが肝心で、全く存在しない何かを志向する必要はない。
先ずそのサービスが生活パターンの中にある当たり前の行動を便利にする事、そしてもう一つ、そのデバイスが既存の所有物の延長にあること。
これらを検討軸とするとxRの現状の延長線にある未来はなかなか容易では無い。逆にそれらの基準をベースに検討するなら、より当たり前に欲しい物が見えて来る筈だ。
当たり前の話
ここで述べていることはあまりに当たり前で、平坦な話だと思う。
だけど、技術の使い所はあくまで日々使ってもらえる製品の実現性を高めるために存在する筈であって、その技術そのものをデモンストレーションするために存在する訳でない。
もしそこが反転すると、その製品はテクノロジーのショーケースに堕してしまう。
iPhoneが日本でデビューしてからの十年を振り返りつつ、アップルの偉大さを思うにつけ、その日用品をベースにした日常的行為の拡張という基本パターンから学べることは実に大きい。
全く新しい機能または全く新しい機械を彼らは作っていたのではなく、実はその日用品としての更新に於いて、極めて巧妙であったと言えるのだ。
革命的製品は革命的な印象を伴わず、自然に浸透するべきなのかも知れない。
別の言い方をすれば、「既知の体験性やデバイスをもとに構築する」ことを起点に考えない限り、xR系デバイスとそのサービスがもたらす価値体系は作り得ないと思うのだ。