起業家のバイアス
製品開発が自己承認欲求へと傾いてしまう理由。
起業家のバイアス。
起業家は自らのスタートアップと、そのプロダクトへの反応に関してどうしても自己承認を求めてしまいがちだ。
もちろん自己承認欲求は良いドライブにもなるのだけど、その製品が認められるのはその製品を通じて利用者が受益する"価値"に対してだ。決してそれを開発した起業家自身の個人的な"価値"が認められるからではない。
多くの人たちがスティーブ・ジョブズが大好きなのは彼が世に出した非常に成功した素晴らしい製品を日々使えるからでは無いだろうか?それ抜きに彼を好きだと感じるのは実は前後関係的にはおかしい。
実際NeXT社からApple社に移籍した当時のジョブズは(その時点で死に体だった)Apple社の救世主として決して思われてはいなかった。その後の(驚くべき)成功は、あくまでApple製品の成功を通じてであって、彼が愛されるのも、あくまでその驚異的な成功ありきだ。
そこを混同すると、果たして「良い製品とは何か?」の問いがどんどん横滑りしていく。
製品へのダメ出しが起業家本人へのダメ出しと感じられるのはとても危険な兆候だ。
では、製品の価値は誰が決めるのか?と、言うと開発当初は起業家本人、スタートアップのチームメンバー、エンジェル投資家などの生み出す当事者達だ。
が、それは本当にごくしばらくの間ことでその価値はそれを使って、その製品に対価を支払う人達によって決定される。
生み出す人達の作り出す価値がやがてそれを使う人達によって認められていくプロセスこそプロダクトマーケット・フィットの醍醐味だ。
では、なぜその当たり前のプロセスに「起業家のバイアス」が掛かってしまうのだろうか?(起業家のバイアス=この場合は、製品の利用価値の追求が自己承認欲求の追求の横滑りしてしまうこと)
起業家の神話
それは起業家固有のユニークなビジョンをそのドライブにして作られた「見たこともない」製品が世界を変えると言う業界固有の「神話」に多くの人たちが囚われているからではないだろうか?
まるで「見たこともない」ような製品を孤高の起業家の固有のビジョンが創造して常識を覆す。この神話の拘束力は決して小さくはないし、例証も多く存在するので、一概には否定できない。
でも、その神話の内容を冷静に考え直してみると、その神話のストーリーラインは、むしろ、こう読み解けるのではないか?と考える。
それは「ビジョンが駆動して物凄い新製品が世界を変えた。」ではなくて時代を変えた製品の起源を求めてその製品誕生の起源に"起業家の神話"、つまりビジョン駆動の製品開発ストーリーを改めて(発見しようとして)発見しているのではないか?
つまり、製品の成功が先でその後にビジョンの追認が起こっている。そのようにも考えられる。
要は、後付けのロジックと見なすべきで、その逆はなかなか無い。のではないか?
より正確に言うと良い(=売れた)製品として多くの人が認めた場合には、その製品そのものがビジョンの語り手(これをバズという)になっているので、それは、もはや自明に感じてしまう。
究極的に、良い製品はその価値概念=ビジョンを自らが語り始めるものだ。口コミで飛躍的に広がる製品の成功の秘訣はその「Word of mouth」の力をフル活用出来る所にある。
が、逆のケース。成功が明らかで無い(つまり未知の)新製品をビジョンのみで(その製品価値を)人が受容するようなケースは、ほぼ有り得ないだろう。
例えていうと失敗した製品やスタートアップを「でも、あのビジョンは最高だったよ」と弁護するような話は、ほぼ聴く機会が無い。
だから、自らの製品を提供する際に、それを自己承認的な立場で見るのは害が多く、決して良いアプローチとは言えないだろう。
むしろ貪欲に製品そのものの受容成功にこそ忠実であるべきで、ビジョンはその後の追唱でも全く構わない。と、思うのだ。
ビジョンは後付けで全然構わない。
ビジョンの追求が製品の成功を脅かすなら、それはむしろ害だと思う。
では、なぜそのメタ認知的切り替えが難しいのか?(新製品の成功というリアルな課題解決を追求するべきなのにビジョンの結実という大義名分的課題に向かいがちなのは、状況や製品をメタ認知することの困難さがあると思うのだ)それはそれで検討に値すると思う。
極限をすると、うまくマーケットに受け入れられたプロダクトから、より抽象度高くその製品の価値を言語化したものをビジョンと見做す。その位で良いのではないだろうか?